上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- /
 放置しすぎてそろそろ削除されそうなのでちょっと帰りました。

 環境がめまぐるしく変わっていますが、そう単純な結末ではないので

またの機会に詳しく書かせていただきます。
スポンサーサイト
2008.01.25 /
ご無沙汰しております。ネット環境にいない為、しばらくは更新できそうにありません。コメント戴いている皆様には申し訳ありませんm(__)m
2007.03.26 /
 庶民、と創価学会及び公明党の方々は良く仰る。『庶民』の人々の暮らしがどうの、『庶民』の税金がどうの、『庶民』『庶民』『庶民』・・・。
 これだけ連呼されると『庶民』て誰ですか?と聞きたくなる。少なくともそこに障害者は混ざっていないのだろう。あの法案に賛成したのだから。

 辞書によれば庶民とは、

 世間一般の人々。特別な地位・財産などのない普通の人々。

 の事を指す。しかし今のご時勢これをそのまま当てはめて良いものか疑問に思うのは私だけだろうか。『特別な地位』というのは主に血脈の事らしく、昔の貴族などが該当するらしい。と、いうことは今の企業の社長などでも全て『庶民』となるのでは?
 現在『庶民』と呼ばれる人々に会社役員は入っているのだろうか。入っていないとすればこの辞書とは別の解釈がまかり通っているんだろう。

 世間一般の、低所得層の人々。

 こうした方が公明党が年始に連呼していた『庶民』にしっくり当てはまるのではないだろうか?
 ちなみに自民党はあまり『庶民』という言葉を使わず『国民』と表現する事が多い。何故なら『庶民』という呼び名は蔑称に当たると指摘されることがあるからだ。もし上記の解釈が正しいならそれも然りだろう。それなら何故、~万円以下所得層という括りをしないのか常々疑問だが、あやふやなのが政治家、断言してはまずいのだろう。


 『庶民』と呼ばれるとき、そこに人権は存在しない。ただのヒエラルキーがそこにはある。
 私には自分が庶民だという強い自覚は無い。それ故に、力に対して別段欲求は無い。しかし創価学会員は庶民の自覚が強く、権力財力に強い羨望を向けている。その劣等感は学会員の特徴でもある。

 羨ましいんだろう!と学会員は非学会員に言うが、それは己の痛ましい劣等感の裏返しにしか見えない。
2007.01.16 /
 本日、不適切なコメントがありましたので削除させて頂きました。

 記事を全く読まずにコメントをする事、特定の宗教の賛美なども削除の対象とさせて頂きます。
 しばらくの間コメントは承認制となりますのでご了承下さい。



 お悔やみ申し上げます、のコメントには呆れました。母はまだ亡くなっておりませんが?
 このコメントをされた方とは一切関わりを持ちたいと思いません。二度といらっしゃらないことを切望します。

 宗教とやかく言う前に、最低限の常識をお守り下さい。
2006.12.05 /
 私の母はとある真言宗系の新興宗教にハマっている。
 そのやり方を見ていると創価学会となんと共通点が多いのかと驚く。本尊がコピーであったり、仲間意識が強かったり、全て信心のお陰だと決め付けてしまうところにしても。
 傍から見ていると同じでも、本人たちは違うらしくお互い目の敵にしておられる。

 そんな中、母が病気に侵されていることが判明。先週から治療が始まったのですが、副作用で今週から入院する事になりました。
 ここも創価学会と同じだと思う所ですが、入院した夜には宗教関係のお仲間から電話が何度も鳴った。

『お母様の具合はどうですか?』
「今は病院におりますし落ち着いております。ご心配なく」
『大丈夫なんですか?』
「大丈夫ですよ」
『悪い病気じゃないんですか?』
「違いますよ」
『仕事も辞められるの?』
「だから、今週で退院できますし大した事無いですよ」
『心配だわ~、悪い病気じゃないの?』

 貴女方はそんなにうちの母親を悪い病気にしたいんですか?

 何度も大丈夫だと言っているのに、一番心配している家族に対してこの畳み掛けるような言葉。まるで不幸を願っているように思えて仕方ない。土足でずかずかと他人の家の中に入り込み、さも善人の顔をしてかき回す。いい加減にしてもらいたい。

 だが、ここで母の心境に一つ変化があったらしい。
 母は、絶対に宗教関係者にはこの病気を知られたくないと言う。

 こういった場合、創価には決まり文句がある。
「題目上げているからその程度で済んだのよ」又は、「題目が足りないのよ」
 母の新興宗教でも同じ事を言われる。
「信心しているからその程度で」「信心が足りないから」

 ただでさえ病気と闘う日々で心身ともに疲れているのに、これ以上疲れたくないというのが本音だろう。
 どちらの宗教にしろ、自らの信仰の正しさを証明したいが為に、病気になった信仰者に対しては厳しい事を言わなければならない。何故ならば『幸福な人生を約束する宗教』である以上、病気になどなられたら信仰している自分の未来も危ういではないか。
 そこで『その程度』と良かった探しをしたり、『足りない』とその人のせいにするのだ。それが過ぎると攻撃になる。それを解った上で言うのなら母は死の気配を感じてやっと目が覚めたのだろう。

 母はその病気になる可能性を十分に持っていた。遺伝、体質から考えると80%を超える確率で発病する。はっきりいって仕方が無い。そしてその病気について調べまわった知識と情報から、すぐに亡くなる可能性も無いと結論が出た。
 こういった罹っても不思議はない、だが良くなって当たり前の状況。万が一悪化することがあってもそれはそれで寿命だし、そこに信仰が入り込む余地はない。

 やはり、死に宗教は必要ないのだろう。
 生きていて、尚且死を恐れるものにのみ有効なのだ。
2006.12.01 /

無料カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。