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 創価学会はフランスではカルト認定されている。

 結論から言えばこれは正しい。カルトの定義というのは複雑に枝分かれしており、ここで一口で述べるのは難しい。その中でも最も私の今置かれている環境において議論となる、信仰について抜粋する。

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<信仰とカルト的狂信の違い>
 信仰においては、個人的な選択がなされ、質問や疑義が容認され、故人が信仰の危機に陥った時に援助がなされる。社会的行動は普遍的モラルの規範を越えることは無く、他の信仰への寛容があり、信仰を他の色々な活動に応用するよう勧められ、特定の生きた人間が神のように礼拝されることは無い。
 これに対してカルト的狂信では、グループが絶対的真理を擁していると見なされ、グループ内の法によってのみ行動をとらされ、それが社会規範に反するものでも顧慮しない。他の信仰は“悪”と結び付けられる。信仰の確信をグループの利益のためにのみ利用する。リーダーを偶像視する。
 ・・・第四章 カルトの見分け方・・・

 信仰というものは常にどこまでが純粋な信仰か、という線引きが難しいものだが、こと創価に関して言えばその排他性が何よりカルトだという証拠となる。事実カルト認定された経緯もこういった部分が主であったようだ。
 聖教新聞に踊る、他宗教や脱会者への侮蔑や暴言。修学旅行で神社にも入れない仏罰に締め付けられた子ども達。こういったものが何より証拠だと言えないだろうか。

2006.11.13 /
 フランスでは創価学会はカルト認定されている。

 これは『創価』で検索すれば至る所で目にすることが出来る事実だ。だが、学会員はこれを否定する。曰く、『アメリカや日本では認定されていないのは何故だ。一部の国のみが言っているだけだ』。
 確かに、何故フランスなのか?竹下節子著『カルトか宗教か』の中で詳しく説明されていたので掻い摘んで説明したい。


 ヨーロッパの歴史は常にキリスト教と共にあった。巡礼の道が交通網を作り文化を運び、人々の生活と密接な繋がりを持っていた。しかし一方では十六世紀の宗教改革ではカトリックとプロテスタントが大量の血を流している。ユダヤの迫害もそこに根ざすものだ。

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 今でもバルカン紛争に見られるように、異宗教間の対立は深いし、異宗派同士の不和もある。フランスのように苦労して宗教分離を果たした国でも、無神論者や無宗教共和国派の反カトリックのこだわり、アレルギーは今でも大きい。日々の生活や交友関係にもデリケートなバランス感覚が要求される社会なのだ。
  ・・・はじめに より抜粋・・・

 そういった宗教の怖さ、政治に入り込んだ時のリスクを存分に理解している社会だからこそ、カルトに対する姿勢が他国に比べ真剣かつ強固なのだろう。

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 フランスでは、政府にも文部省、厚生省、法務省など数省庁にまたがるカルト対策会が常設されているし、議会のカルト調査委員会も常設されている。カルト被害者を支援したり情報を提供する民間団体も充実している。フランスだけでなくヨーロッパ共同体のレベルでも、話合いがもたれている。
  ・・・はじめに より抜粋・・・

 
 フランスではカルト認定されている。と軽々しく口にする前に、それは何故か?と問われた時の知識は持っておくべきだと思う。フランスにおける宗教分離の歴史を浅くでいいから知っておかなければそんな言葉に何の意味も無い。
 少なくともオウムの事件で慌ててにわかしのぎの法律を作ったような浅はかな経緯で認定されたわけでは無く、古い年季のある宗教が根底にあり、それらは他宗教だからといって迫害するでなく救いの手を差し伸べるためにこういった法整備を整えているのだ。
2006.11.12 /
 南無妙法蓮華経 って、実際に創価学会員が唱えているのをみたことがありますか?

 先日、婚約者の父親の葬儀で目の当たりにしました。愛している相手でさえ、気持ち悪い様相でした。退会を迫るのは一方的すぎる、と思っていたはずの最後の理性まで跡形も無く消え。
 その嫌悪感は、私が成人してから祖父母が相次いで亡くなり、真言宗と浄土真宗の僧侶のいる葬儀と法事に何度も出ている慣れからかもしれない。
 だが、創価学会の葬式というのは祖父母の静粛な葬式と比べて、何と締まりの無いいい加減な式だろうと情けなささえ覚えた。きっとこの人達は他の葬式に出たことがないんだろう。例え出たとしても邪教だ、というフィルターで目が小さくなっているからその清浄な雰囲気を感じることができないのだろう。そうでなければ学会の言うことだから間違いない、と思っているか。
 素晴らしいと繰り返し言うが、どこが素晴らしいのか私にはちっともわからない。

 創価の友人葬、家族葬は故人への冒涜だ。
2006.11.10 /
 対外的には仏罰論は糾弾すべき所ではない、と仏罰論.1では書いた。だからといって悪くないとは、口が裂けても言えない。
 創価学会が持つ病としての仏罰論の一面もある。


 人はそんなに馬鹿ではない。信仰したからといって生活が向上するとは限らない。入会するまでは『入信しないとわからないこと』と言うが、入ってしまえば通用しない。勿論そこで『信心が足りないから』と突っぱねることも多いが、それでは簡単に脱会されてしまう。
 ここでまた仏罰論の出番が来る。退転者(学会内では退会した人のことをこう言って蔑む)に対して言われる言葉にそれが多く見られる。

 曰く、「退転すれば地獄に落ちる」
 曰く、「創価学会以外を信仰すれば不幸になる」

 これはまだ大人しい方の言い方だが、少なくとも一瞬でも創価学会の力を信じた者からすれば脅威である。退転したいと申し出た者はこれ以上の言葉で脅される。
 セールスポイントとして使う分には糾弾するな、とはこういうことだ。前出の使い方はまだ生ぬるいことが分かるだろう。だがそれを脅しとして使うならこれは立派に糾弾されるべきだ。

 仏罰論.1で洗剤に例えたが、こういった脅しは洗剤の効力を信じた者にとても有効なのだ。もしかするとこの洗剤を使うのをやめたら、病気になるかもしれない。それどころか家族が死ぬかもしれない。しれない、で済む人はまだ救いがある。しかし、妄信的に信じていた人ほど『これをやめたら死ぬ!』という脅迫観念が強いのでもうそうなると抜けられない。
 いくらその洗剤で魚が死のうがアレルギーが出ようが、自分や家族が死ぬよりマシ、なのだ。
 周りが何と言おうと、本人は恐怖に捕まっている。そして信心しているうちは幸せなのであえて恐怖を味わってまで出ることは無い・・・となる。

 こうなると麻薬中毒者とたいして変わらないと思うのは私だけか。
2006.11.09 /
『例えば人間が死んだらどうなるかなんて誰にもわからない。
よく、言うとおりにいていたら天国にいけるとか逆らえば
地獄に落ちるとか言う人がいますが、あんなものはデタラメです。
誰も行った事がないのにどうしてわかるんですか?』

 とあるドラマの台詞だが、この脚本家は何を指しているんだろう。

 

 創価学会を外側から見るとき最初に目に付くのが仏罰である。『他宗教に関わると仏罰が落ちる』『退転すると地獄に落ちる』など言われるのが該当する。
 これは何故か?まずは対外的な面から解いていきたいと思う。

 新興宗教を流行らせるには『セールスポイント』が必要不可欠だ。例えば分かりやすいところでは『奇跡』が挙げられる。病気を治すといった事から教祖が不思議な力を使う事まで、『これこれこういう信仰をすれば奇跡が授かる、与えられる』といった目玉商品となる。
 一方創価学会には『奇跡』がない。これが明確にカルトと分かれている証拠だ、と言う方もいるがカルトの定義はそこにはないのでここでは割愛させて頂く。では、創価学会の『セールスポイント』は何か。

 現世利益=ゲンゼリヤク である。

 キリスト教が復活を禁止しているのに対して、基本的に仏教では魂は輪廻するものだと考えられている。簡単に言えば、現世の苦しみは来世で報われ、徳を積む事で次の世代が幸せになれるという。そこに『現在』救済はない。今救われるということは、貧困、病気=お金が欲しいということと直結する。そういった欲望というものは秘められるものであり、耐える事が美徳だとされる。
 現世の救済を主とする、創価学会とその昔の後ろ盾であった日蓮正宗などは仏教としてはそういった面が少し異なる。創価学会などは戦後特にその傾向を強くした。『貧困から抜け出そう』といったスローガンも盛んに使われた。つまりはお金持ちになりたい、良い暮らしをしたい、なら創価学会に入りなさい、という事なのだ。

 だが本当に入会すればお金持ちになれるのか?といった疑問が当然湧く。『奇跡』が実演販売される新興宗教ではそれを見せることによって疑問を消し去るが、創価学会においてはそういうセールスポイントがない。今でこそ公明党という権力を持ち、地区の福祉に直結しているが、初期の創価学会にそれがあったかどうかは疑問である。

 それを補うのが『仏罰論』だ。他宗を全て邪教と見なし、そういうものを信仰していると不幸になる、罰が当たると言う。これは裏を返せばそれだけの力を持った宗教なのだ、と己を誇示する行為だ。仏罰と功徳は表裏一体で、創価学会に入っているから=幸福、創価学会以外=不幸という図式が先にあって、これだけの幸福を与えられるのなら邪教にはこれだけの不幸が与えられて当然、となる。

 これは別段糾弾すべきところではない。力のある信仰は、他宗教に罰が与えられて当たり前なのだ。その力故に幸福になれるのだから。洗剤に例えてみれば、強力な洗剤は清潔を保てる。それを使わないから不潔になって病気になる。これはどこからみても当然のことだ。

 ただ、その洗剤の効き目を信じるか信じないかの話なのだ。そしてその洗剤を使うことによって生態系が崩れるのも、また別の話だ。


 
2006.11.08 /

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