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 サーバーエラーでここ2日間の記事が消えてしまいました。
 一つのみ復旧できたので改めて。


 “マインドコントロール”で一番最初の段階は『肯定されること』だと書いた。これは創価学会に入っている以上常に付きまとう。絶対的な教義を教え込まれ、それをそのまま言うことで周りからは賛美される。そこに自分というものが入れば糾弾され、矯正されていく。共感してくれる人々は同じ思想を持つ者として仲間意識が育ち、共感できない人達は間違っていると思い込むようになる。

 また、繰り返し言うことで“不安”を払拭する。少し周りを見ればそここに綻びは見られるわけで、排除しようとしてもし切れるものではない。しかし学会内ではその綻びの原因を全て外部に求めているので、不安を感じたら学会に従っておけば安定が保たれてしまう。
 そうして絶対的教義が完成していく。思考停止し、社会との摺り合わせをやめてしまうのだ。摺り合わせれば自分の“正しさ”が壊れてしまう。精神の安定の為にはそれは無理な相談なのだ。

 そもそも、日本人は肯定されることが大好きだ。好んで議論を交わそうとはしないし、議論を交わすことは即決別を意味する。集団に流される日本人らしい性癖と言える。

 例えば、『世界の日本人ジョーク集』ではタイタニックから海に飛び込む時の日本人の言葉としてこんなものが挙げられている。

 「みんな飛び込んでますよ」


 この“みんな”というのが曲者だと私は思う。このシチュエーションの場合は意味が限定されるが、通常使われる“みんな”というのは全ての人々が、という意味ではなく、誰が、とはっきり言えない場合が多い。少なくとも確信があれば“日本中で”とか“社会で”など固有名詞が使われる。はっきりしたここから~ここまで、という自信がないからこういう言い方をするのだろう。

 創価学会における“みんな”とは何だ。それは創価学会の中だけに通じる了解事項であり、肯定された事実のことを指す。決して誰が、とか教義のここが、ということではない。肯定されたという経験が肥大して一人歩きしているからこそ、自信を持ってあれだけ横柄に盲目的になれるのだ。

 『これが正しいんだ!』と反論する学会員の陰には、常に“みんな”がいる。そしてその中には自分を批判する学会員の存在は無い。


 肯定してくれる“みんな”。それは実体の無い幽霊である。
2006.11.16 /
 創価学会はフランスではカルト認定されている。

 結論から言えばこれは正しい。カルトの定義というのは複雑に枝分かれしており、ここで一口で述べるのは難しい。その中でも最も私の今置かれている環境において議論となる、信仰について抜粋する。

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<信仰とカルト的狂信の違い>
 信仰においては、個人的な選択がなされ、質問や疑義が容認され、故人が信仰の危機に陥った時に援助がなされる。社会的行動は普遍的モラルの規範を越えることは無く、他の信仰への寛容があり、信仰を他の色々な活動に応用するよう勧められ、特定の生きた人間が神のように礼拝されることは無い。
 これに対してカルト的狂信では、グループが絶対的真理を擁していると見なされ、グループ内の法によってのみ行動をとらされ、それが社会規範に反するものでも顧慮しない。他の信仰は“悪”と結び付けられる。信仰の確信をグループの利益のためにのみ利用する。リーダーを偶像視する。
 ・・・第四章 カルトの見分け方・・・

 信仰というものは常にどこまでが純粋な信仰か、という線引きが難しいものだが、こと創価に関して言えばその排他性が何よりカルトだという証拠となる。事実カルト認定された経緯もこういった部分が主であったようだ。
 聖教新聞に踊る、他宗教や脱会者への侮蔑や暴言。修学旅行で神社にも入れない仏罰に締め付けられた子ども達。こういったものが何より証拠だと言えないだろうか。

2006.11.13 /
 フランスでは創価学会はカルト認定されている。

 これは『創価』で検索すれば至る所で目にすることが出来る事実だ。だが、学会員はこれを否定する。曰く、『アメリカや日本では認定されていないのは何故だ。一部の国のみが言っているだけだ』。
 確かに、何故フランスなのか?竹下節子著『カルトか宗教か』の中で詳しく説明されていたので掻い摘んで説明したい。


 ヨーロッパの歴史は常にキリスト教と共にあった。巡礼の道が交通網を作り文化を運び、人々の生活と密接な繋がりを持っていた。しかし一方では十六世紀の宗教改革ではカトリックとプロテスタントが大量の血を流している。ユダヤの迫害もそこに根ざすものだ。

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 今でもバルカン紛争に見られるように、異宗教間の対立は深いし、異宗派同士の不和もある。フランスのように苦労して宗教分離を果たした国でも、無神論者や無宗教共和国派の反カトリックのこだわり、アレルギーは今でも大きい。日々の生活や交友関係にもデリケートなバランス感覚が要求される社会なのだ。
  ・・・はじめに より抜粋・・・

 そういった宗教の怖さ、政治に入り込んだ時のリスクを存分に理解している社会だからこそ、カルトに対する姿勢が他国に比べ真剣かつ強固なのだろう。

  ・・・・・・・・・・・・・・・
 フランスでは、政府にも文部省、厚生省、法務省など数省庁にまたがるカルト対策会が常設されているし、議会のカルト調査委員会も常設されている。カルト被害者を支援したり情報を提供する民間団体も充実している。フランスだけでなくヨーロッパ共同体のレベルでも、話合いがもたれている。
  ・・・はじめに より抜粋・・・

 
 フランスではカルト認定されている。と軽々しく口にする前に、それは何故か?と問われた時の知識は持っておくべきだと思う。フランスにおける宗教分離の歴史を浅くでいいから知っておかなければそんな言葉に何の意味も無い。
 少なくともオウムの事件で慌ててにわかしのぎの法律を作ったような浅はかな経緯で認定されたわけでは無く、古い年季のある宗教が根底にあり、それらは他宗教だからといって迫害するでなく救いの手を差し伸べるためにこういった法整備を整えているのだ。
2006.11.12 /
 南無妙法蓮華経 って、実際に創価学会員が唱えているのをみたことがありますか?

 先日、婚約者の父親の葬儀で目の当たりにしました。愛している相手でさえ、気持ち悪い様相でした。退会を迫るのは一方的すぎる、と思っていたはずの最後の理性まで跡形も無く消え。
 その嫌悪感は、私が成人してから祖父母が相次いで亡くなり、真言宗と浄土真宗の僧侶のいる葬儀と法事に何度も出ている慣れからかもしれない。
 だが、創価学会の葬式というのは祖父母の静粛な葬式と比べて、何と締まりの無いいい加減な式だろうと情けなささえ覚えた。きっとこの人達は他の葬式に出たことがないんだろう。例え出たとしても邪教だ、というフィルターで目が小さくなっているからその清浄な雰囲気を感じることができないのだろう。そうでなければ学会の言うことだから間違いない、と思っているか。
 素晴らしいと繰り返し言うが、どこが素晴らしいのか私にはちっともわからない。

 創価の友人葬、家族葬は故人への冒涜だ。
2006.11.10 /
 対外的には仏罰論は糾弾すべき所ではない、と仏罰論.1では書いた。だからといって悪くないとは、口が裂けても言えない。
 創価学会が持つ病としての仏罰論の一面もある。


 人はそんなに馬鹿ではない。信仰したからといって生活が向上するとは限らない。入会するまでは『入信しないとわからないこと』と言うが、入ってしまえば通用しない。勿論そこで『信心が足りないから』と突っぱねることも多いが、それでは簡単に脱会されてしまう。
 ここでまた仏罰論の出番が来る。退転者(学会内では退会した人のことをこう言って蔑む)に対して言われる言葉にそれが多く見られる。

 曰く、「退転すれば地獄に落ちる」
 曰く、「創価学会以外を信仰すれば不幸になる」

 これはまだ大人しい方の言い方だが、少なくとも一瞬でも創価学会の力を信じた者からすれば脅威である。退転したいと申し出た者はこれ以上の言葉で脅される。
 セールスポイントとして使う分には糾弾するな、とはこういうことだ。前出の使い方はまだ生ぬるいことが分かるだろう。だがそれを脅しとして使うならこれは立派に糾弾されるべきだ。

 仏罰論.1で洗剤に例えたが、こういった脅しは洗剤の効力を信じた者にとても有効なのだ。もしかするとこの洗剤を使うのをやめたら、病気になるかもしれない。それどころか家族が死ぬかもしれない。しれない、で済む人はまだ救いがある。しかし、妄信的に信じていた人ほど『これをやめたら死ぬ!』という脅迫観念が強いのでもうそうなると抜けられない。
 いくらその洗剤で魚が死のうがアレルギーが出ようが、自分や家族が死ぬよりマシ、なのだ。
 周りが何と言おうと、本人は恐怖に捕まっている。そして信心しているうちは幸せなのであえて恐怖を味わってまで出ることは無い・・・となる。

 こうなると麻薬中毒者とたいして変わらないと思うのは私だけか。
2006.11.09 /

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